スポンサーサイト
- 2023.04.15 Saturday
一定期間更新がないため広告を表示しています
- -
- -
- -
お説教はホントに嫌ですよね。されるのはもちろん、するのも嫌です。
私は説教をしますけど、「したくてしてる説教」なんて一つもないですね。
避けられるものであれば、徹底的に避けたい。
でも、「変わることができる対象」に対して、「変わる可能性がある」から、「変わるきっかけの1つ」として、説き教えることをします。
やっぱり「期待している」からするんですよ。「君は変われるはずだよ。」「君はそんなもんじゃないよ。」っていうね。そういう期待をしていない相手に説教なんてしませんからね。説教する側なんて、ほとんど損しかしませんし。でも、やっぱり期待をして説教をするんですね。
どの程度伝わるかはわからないですけどね。でも、まずは伝えないことにはわからない場合も多いですからね。
それをお勉強の時間使ってやるのはどうなの?って思われるかもしれないですけど、たいていは「お勉強する以前の問題」か「お勉強するより大切なこと」だからやっています。
Sakura塾はもちろん塾なんでお勉強を教えるわけなんですけど、勉強だけを教えるような塾ではありたくないんですよね。
抽象的に表現するなら、真っ直ぐな道の進み方とか、自分が見える視野の広げ方とか、人生の岐路の立ち方とか、新たな一歩の踏み出し方とか、そういった人生を進めていく上で必要になってくることを可能な限り教えておいてあげたい。
まぁ、所詮は私が伝えられる範囲のことになるんですけど、それでも人生を先行し多少は社会にもまれた一人の大人にそういったことをたくさん伝えられることには一定以上の価値があると思うんですよ。
「Sakura塾=私」みたいなもんですし、私のところに来ることに価値を見出してくれるんでしょうし、私にしか伝えられないことがあるんだと思いますし、まぁとにかく私が出せるもんは全部出してあげたいんですよね。塾生たちには。
ただまぁ何というか、厳しい側面を出してあげなければならないことが多いのが、なんか私の損しやすいところなんですけど。
「ちゃんと伝わる」までは「なんかやたらとうるさいおっさん」ですからね。損過ぎる…。
そのへんは、いつか伝わってくれればいいな…くらいであきらめるようにしてますけどね。目先の結果を求めてばかり伝えているわけではないですから。今すぐに伝わる子もいれば、後に何かをきっかけに伝わることもあるでしょうし。
えっと…、何の話でしたっけ?お説教?説教されたければSakura塾へ!…何か違うっ!!!
最も効率のいい勉強は、自学自習だと思っています。
でも、小学生や中学生にとっては、全く知らないことを参考書などの文章から理解することは簡単ではありません。
それについては、先生の授業で「知らない」→「知る」、「わからない」→「わかる」ようにするんですよね。
だから、小学生や中学生にとっての自学自習とはほとんどが復習ということになります。
小学生や中学生の宿題のほとんどが復習になるのはこのためですね。
復習によってするべきことは「できない」→「できる」、「覚えてない」→「覚える」ことですよね。
(ちなみに学力をつけるには、「できる」までやる、「覚える」までやる、が最も必要なことでしょう。)
そして、その小学生や中学生にとっての自学自習を成立させるために必要なことのひとつは「丸つけができること」です。自学自習には最低限「間違っていることが見つけられる」力が必要です。「正しくできていない」を見つけられる、「正しく覚えていない」を見つけられることで、それを「正しくできる」ように、それを「正しく覚える」ことができます。
「いや、そんなこと解答さえあればできるやろ。」
って、思いたいんですけどね。想像している以上にできないんです。
小学生って、だいたい大人が丸つけをしてくれるんですよ。先生とか、保護者とかがね。
(解答を渡してもらえない場合も多いですね。大人の丸つけ待ちがあったりします。そのせいで、問題を解いただけで満足する子が多いんですよね…。ま、これは別問題なのでおいておきます。)
そして、中学生の宿題は問題解いて自分で丸つけまでして提出なんですよね。
でも「自分できちんと丸つけができるように」はしてもらってないんですよ。
最初から自分できちんとできる子もいますけど、最初は自分できちんとできない子もいますよね。
先日、小学6年生に英作文の小テストをして、自己採点してもらったんですよ。
自己採点後の小テストをチェックしてみるとね、8割近くの子が採点ミスをしていました。
冠詞が抜けてるのに〇をしたり、英単語のつづりを間違えているのに〇をしたり、らじばんだり。
まぁ「どこ見て丸つけしてるの?」って思ってしまいますけど、そんなもんなんですよ。最初は。
ただ、こういう間違っているものを間違っているときちんと判断できない状態では、自学自習の質は高まりませんね。
ということで、私はいつも小学6年生の後半と中学1年生の最初は丸つけについてはかなり厳しく確認しています。
本音としては、毎日通って毎日宿題を出す小学校のほうがこれについては指導しやすいでしょうし、こういうことこそ子どもたち全体の学力の底上げになるのにな~なんて思ったりしています。
さて、続きです。就職する会社選びに悩む教え子。
聞いていると、
「こちらはこういう仕事ができて、規模はこんな感じで…」
「あちらは勤務先がこうなって、こんな仕事ってのは約束してもらってて…」
とまぁ正直、ネットで調べればわかりそうなことを言っていました。
一通り聞いたあと、「会社の人とどれくらい会ったん?」と聞いてみたら、ほとんど会っていない様子。
私の持論は「環境は人」です。
やりたい仕事がどうこうも最低限あると思いますが、その最低限はクリアしているなら、あとは人が全てかな、ぐらいの勢いです。
例えば、そこで働いている人がどんな顔して働いているかで、職場の状況はわかりますよね。
例えば、その会社の人と接すると、社内教育の質や気配りなどを肌で感じることができますよね。
そして、やりたい仕事ができるなら、あとは「誰といっしょに働けるのか」じゃないですかね。
尊敬できる上司と出会えるとか、信頼できる同僚ができるとか、めちゃくちゃ大事でしょ。
そんな上司に出会えそうな場所か、そんな同僚ができそうな環境かどうかって、大切ですよ。
旅行だって「どこに行くか」じゃなくて「誰と行くか」なんてこと言うじゃないですか。
だから、伝えました。今からでも、その会社の人を見たほうがいい。多少は無理を言ってでも、会社を見学させてもらったり、先輩や上司になる人に会わせてもらってたりしたほうがいい。それで、この人と働きたいと思えたり、こんな人たちと働いてみたいと思えたら、もう迷わないと思うんですよね。
「本気で決めるため」と伝えれば相手もそれに応えてくれるはずだし、それを断るような会社なら就職なんてしないほうがいいです。これから働こうとしてる場所を見学すらさせてもらえないなんて、明らかにおかしいですからね。怪しすぎます。
これは就職だけでなく、環境選び全般に通用する考え方なんじゃないかな〜と思っています。
子どもが通う塾選びもその一つかなと思いますので、選んでもらえる先生でありたいものです。
ということで、私が伝えたことが役に立ったのかどうかはわからないですが、教え子も就職先を無事決めることができたようです。めでたしめでたし。
きのう、突然の訪問者がありました。
それは現在大学4年生の元教え子。
元教え子と言っても以前勤務していた塾での教え子。
しかも諸々の都合で卒塾の時まではそばで教えてあげられなかった教え子。
前に来てくれたのは大学1年生になった頃だったので、3年半ぶりくらいです。
私「お〜久しぶり〜!遊びに来てくれたんかぁ〜!!!」みたいなね。
そしたら、
彼「ちょっとご相談したいことがあるんですけど…」とね。
私「おっ、なんやなんや〜?!」
彼「実は就職先をどうすればいいか迷ってまして…〇〇社と××社で悩んでて、返事をずっと待ってもらってて返事の期限が明日なんですけど、〇〇社はあーでこーで××社はあーでこーで…。」
私「ほぅ。うーん。そうか。なるほどなぁ…」
(…えっ?!期限明日?!)
相談を受ける者になかなか酷な時間制限設けてきました。
明日返事せなアカンかったらやれること限られとるやないか!
(彼が来たのはきのうの16時より少し前。)
ということで、まぁ私の考えと策は彼に伝えさせていただきました。
このブログでその内容を書くつもりだったんですが、それはまた次の機会に!
何回コードブルーのこと書くんだよって感じなんですが…。
最終回のセリフに感じるものがあって…
「医者は所詮、助かる命しか救えない。手の施しようのない患者を、神のように救うことなんてできない。」
ですよね…。みたいな。
「塾講師は所詮、伸びる子どもしか伸ばせない。どうしようもない子どもを、神のように伸ばすことなんてできない。」
塾講師として、こういう局面に出会わないわけではありません。打ちのめされてしまうようなことだってあります。なかったとしたら相当なカンチガイ講師でしょうね。現実として、大なり小なりそういうことはあります。
ですが、だからと言って「合わないので伸ばせません」とか「もう遅いです」とか、そういう言い逃れを簡単にしてしまうなら、それを事前に強調して避けてしまうようなら、塾講師として存在意義すら感じません。(何の力も根拠もなく何でもかんでも「お任せ下さい」は罪深いですけどね。)
ドラマでは、上記の言葉とは裏腹に手の施しようのない患者をたくさん救っています。
違いますね。どうしても手の施しようのなかった患者は救えていません。
ドラマでは、手の施しようのないように見える患者もたくさん救っていました。
その医者の力量次第で、手の施しようのないように見える患者も救うことができるんですね。
私たちも同じですね。どうしようもないように見える子どももどうにかしたい。
手の施しようのない事例の種類は、その先生の力量次第で減らすことができると思うんですよ。
どうしようもない子どもというのは、その前に「その先生の力量では」という言葉がつくのです。
ドラマでの続きのセリフは…
「救える命を確実に救う。そのために日々学んでいる。」
だよな…。みたいな。
「伸ばせる子どもを確実に伸ばす。そのために日々学んでいる。」
より確実に伸ばすために日々学ぶのは当然なんですけど、塾講師として自身の力量を上げることで伸ばせるように見える子どもを増やしていくためにも日々学ばなければなりません。
「私は君を伸ばせる。」
そう言ってあげられる子どもを一人でも増やせるように、日々学んでいきたいと思います。
P.S. 山Pカッコよ過ぎてずるくない?!
みなさん、ボウリングってどれくらいされてるんですかね。
ボウリングは重たい球を転がして、10本のピンをどれだけ倒せるかという遊びですね。このブログは「いちおうボウリングは知っている」程度の知識はないと意味がわからないかもしれません。
私はここ10年くらいはほとんど行ってないですが、もっと前はちょこちょこ行ってました。
ボウリングは人それぞれに投げ方や狙うコースにクセがあるものです。
私はね、一投目はとにかく超真っすぐのド直球を力いっぱいド真ん中に投げ込むタイプなんですよ。「一発で10本のピンをぶっ倒すぞ!オラ!」みたいな勢いですね。ほとんどこの投げ方です。
一投目で1、2本残ってしまったときの二頭目は、とにかく丁寧に狙いを定めて真っすぐ当てにいきます。
それ以外で投げるのは不必要なくらい曲がる変化球ですね。たまーにやりたくなるんです。
自身はレーンの一番左端から投げて、ボールは一度レーンの右端近くまで転がるんですけど、ボールの回転でギリギリのところで左に曲がって、最終的にボールが1番ピンのド真ん中にあたる、みたいな。
人は言動のいろんなところに性格が出るといいますよね。
なので、私の性格がこの投げ方に出ているかもしれません。
だからと言って、投げ方聞いてもどんな性格かよくわかりませんよね。
いや、クセがすごいってことはないと思います!
私のブログなどにおける言葉選びの基準は、伝わりやすさです。
カタカナコトバは使わない!という崇高な矜持は私にはありません。
それでも私はカタカナコトバを使うことがそれほど多くないと思うんですが、それは日本語で伝わる、日本語のほうが伝わると判断する場合が多いからなんだと思います。
でもどちらかと言えば、意識の中にカタカナコトバはあまり使いたくないというのはあるかもしれません。
以前に書いたかもしれないですが、それは過去に勤めていた塾で嫌いだった上司とのやり取りで決まりました。
その嫌いな上司が職員室からの去り際に私に聞いてきました。
「たくまくーん、〇〇の件はフィックスで?!」
とね、去り際に聞いてくるもんだから、「…はい!そうです!」って一瞬の間の後に返しました。
でも、私は思っていますよね。その一瞬の間に…
「はぁ?!」って。
そしてその上司が去ってから再び私は思いますよね…
「フィックス…?はぁ?!」
その後、その上司のことは大嫌いになりました。
わかります?フィックス。調べてみて下さい。
調べても思いますよ。…どの意味で使ったん?!
私の思い出話はどうでもいいですね。
ということでカタカナコトバはどちらかといえば好きではないです。
でもまぁもうむしろカタカナこコトバのほうが意図に近い意味で伝わる場合は平気で使います。
テストとか、ルールとか、タイミングとか、ダイエットとか、チャリとか。
ただ、日本語の語彙ももちろん大事にしてますよ。
ただ個人的には話すとき書くときよりも、聞くとき読むときに大事になります。
私は子どもに関わる先生が、カタカナコトバであれ日本語であれ、相手により伝わる言葉を選べていないことには強い違和感があります。
伝達対象の平時活用語彙から乖離したチョイスをすることに当人のアビリティ欠如の疑いを有します。
思いましたよね?「はぁ?!」って。
なんでそんな言葉使ってんの?どういうつもり?って思いますよね。
こんなもん「伝えたい相手がいつも使ってないような言葉を選ぶのはその人の伝える力が足りんのちゃうかと思うんです。」でいいでしょ。
もちろん、その言葉をあえて使うことで伝えたいことがあるのであればいいんですよ。
もしそうでないのであれば、伝える側の言葉選びにセンスも配慮もないだけですよね。とにもかくにも、子どもに関わる先生が言葉選びにセンスも配慮もないのはどうかと思いますし、言葉選びに無自覚であるというのはけっこうな問題だと思います。
私は難しい言葉を使うときも、雑な言葉を使うときも、自覚してあえて選んで使っています。無自覚に使っている言葉は中学3年生くらいに気持ちよく伝わる程度の言葉になっていると思いますね。
書きながら思いましたが、自身の言葉を自覚できることは先生には必要な資質のような気がします。
あっ、もしあの上司がフィックスを自覚してあえて選んでいたのだとしたら…
うん、それはやっぱり「はぁ?!」って思いますね。
目標というのは、今まで通りでは達成できないことに意味があります。
そのまま頑張れば到達するものを、わざわざ目標として目指す意味はありません。
目標を達成するために必要なこと。それは今の自分に抗うこと。
「今のままではダメだ。」それをどれだけ変えていけるかが勝負どころです。
それは小さな目標でも、大きな目標でも同じことです。
例えば、テストで今よりいい点数をとれるようになりたい。
例えば、〇〇高校に合格したい。
どちらもやることは同じです。自分を変えること。
今までよりいい点を取れるような自分に変わる。
〇〇高校を合格できるくらいの力をつける自分に変わる。
何も考えずただたくさん書くような覚え方はダメだ。
自身の理解の確認をともなわない問題演習ではダメだ。
提出期限直前にあせってギリギリで宿題をやるようではダメだ。
間違えたとき「なぜ間違えたのか。」が気にならないようではダメだ。
自分のダメなところにどれだけ抗えるか。
こういう自分からどれだけ変われるか。
それが、目標を達成させることでしょう。
とりあえず、まずは、自分のダメなところに、抗え。
自分で考えるなんてことは、できて当たり前のことだと大人の多くは思うようですが、なかなかうまくいきません。
特に自分のことであればなおさらです。自分を客観的に見つめ、自身の課題を見つけ出す。大人を見ても、自分の姿を客観的に見ることができていないと感じられる場合がたくさんありますね。
ですから、いろいろと経験の少ない小学生・中学生・高校生であればなおさらだと思います。考えようにも考え方がわからないだろうし、解決しようにも解決策が浮かばないのが普通でしょう。
大人ですら「こんな考え方したことなかった!」「そんな解決策があったとは…!」ということたくさんあります。こんな考え方やそんな解決策は、いくらやっても自分の中になければ引き出しようがないものです。今までも、これからも、人の話や本などからそういうものを獲得し続けながら生活していきますよね。
そういうことが自分でできる中学生がいれば、その子はめちゃくちゃ賢いですよね。それこそ毎日勝手に成長していきますから、その子が勉強に取り組んでいれば、近畿圏最大規模の模試で偏差値70前後くらいは悪くとも出しそうです。自分を客観的に見つめ、自身の課題を見つけ出すことができるのであれば、塾なんかほぼ必要なく中学校でのテスト結果では上位層に居続けるでしょう。
逆に言えば、そのくらいになっていないのであれば「自分を客観的に見つめ、自身の課題を見つけ出す。」ことはできていないと思います。少なくとも私が思う「自分を客観的に見つめ、自身の課題を見つけ出す。」ができている状態にはなっていません。
取り組んではいても、不十分なんだと思います。多くの中学生がこの「取り組んではいるけど、まだまだうまくいかない。」で苦労をするでしょう。だから、指導者が存在しています。指導者に支えてもらいながら、成長していくんですね。
中学生をほったらかして自分で考えさせておけば、いつかその子にとって最高の方法を見つけ出すなんてことはないでしょう。
私は、Sakura塾から枚岡中学校まで行く方法を知っていますが、それが最高の方法なのかはわかりません。
私の知らないもっといい行き方があるのかもしれません。でも、知る限りそれが一番いいんじゃないかと思っています。
でも所詮は「知る限り」なんです。自分が調べることができて、自分の知ることのできる範囲ではというだけです。
中学生なんかはまだまだ「知る限り」が少ないわけですから、最高の方法は見つけ出しにくでしょうね。
「わかる」と言って全くわかっていない、「できる」と言って全然できない、自分を客観的に見つめられない中学生が大半です。それは中学生が悪いわけではなく、まだまだそんなもんなんです。知識もなければ考え方も未熟なんです。だから、たくさん教えてやらなくちゃならないんですよね。そこから自分の課題を「正しく」見つけ出すことができるまでは、なかなかの道のりですよ。少なくとも、それができてなかった子に自分で考えさせて、それができるようになることは非現実的です。それこそ「そもそもできる子」でなければ難しいですね。
なかなかうまくいかないからこそ、自身の子どもには、自分を客観的に見つめ、自身の課題を見つけ出すことができるようになっていってもらいたいものですね。そして、そうなっていけるような指導をしてくれる指導者に出会いたいものですよね。
そんな指導者の見つけ方?少なくとも「自分を客観的に見つめ、自身の課題を見つけ出すことのできている指導者」でなければなりませんね。人に偉そうに言うだけで、自身の課題を見つけ出せず(見つけ出そうともせず)にいるような「自分はデキる先生」と思い上がっているような指導者はやっぱりダメなんでしょうね。
私も、自身に対しても、塾生に対しても、程度の低い状態で思い上がるようなことのないようにしなければなりませんね。
最近、毎日授業が終わると体中がきしむような感覚におそわれるんですよね。もう歳ですかねぇ…。
近頃、授業終わって、腰をかけて、ふと思うんですよ。
授業が終わったとき、毎日これくらい疲れてる塾の先生ってどれくらいおんのかなって。
つまらない会議や過剰な営業活動に身を削ってる先生は多いのかもしれませんが…。
塾生の指導のために身を粉にできる先生、それほど多くないんじゃない?!とか思っています。
余裕で「お疲れっした〜!」とか軽い足取りで帰ってる塾の先生って、多そうですよね。
私はもう体のあちこちに油をさしたいくらいですよ。もう歳ですかねぇ…。
(実際にはベタベタになるだけなんで油をさすわけはないですよ?そう、これが比喩表現ですね。)
まぁ、毎日やれるだけやったらこうなりますから仕方ないですね。余力残すほうがどうかと思います。
残念なことに私の満足感は自己に基準がないんで、どこまでも終わりがないんですよね。
自分で「これで完璧や!」って勝手な基準設けて満足できるような人間であればもっと楽なんですけど、
塾生の指導に完璧なんてあるわけがないので、もう果てのない道を突き進み続けている状態ですね。
結局毎年指導については何かを更新し続けている状態なので、どこまでいっても楽にならないというね。
このペースでやってて、どこまでもつかな?って思ってしまいますね。もう歳ですからねぇ…。
…はい。そうなんですよ。最近、1つ歳をとっちゃったんですよね。私。
なんじゃこのブログ。「だから何?!」的なね。こんなこと書くつもりじゃなかったのに…。
書くつもりだった内容はまた次回のブログで!忘れる前に書けたら書きます!(すでに「何を書くつもりやったっけ?」状態に突入しております。)